こんにちは。
今日は新しいシリーズ「超初歩からの経済学入門」の1回目として「需要曲線と供給曲線」について書かせていただきます。
日本国民は経済をどう学んでいるのか
日本人の経済学との付き合いというと、まず出会いは公民科、「現代社会」のうちで高校生の7割近くが学ぶとされている「政治・経済」ということになりそうです。
ところが、その学びの成果が問われるセンター入試での経済に関する設問を見ると、2017年までの10年間に経済関連の設問が全部で144問出題されたうち、分野別の出題頻度を見ると、以下のとおりになっていました。
国際金融を含む国際経済が21問でトップ、公害と環境問題が20問で2位、社会保障が16問で3位、市場の仕組みは全体の1割にも満たない14問でやっと4位に滑りこんでいる状態です。
これでは晴れて大学に入学した新入生諸君が経済学を学ぼうとしても、まず需要と供給のあたりでつまずいてしまって、あとは「暗記科目」としてなんとか模範解答に近い文章を書くだけになってしまうのは無理もないと思います。
決して、国際経済・国際金融、環境と公害、社会保障が重要問題ではないと言っているわけではありません。とても重要な問題ばかりです。
でも、この3つの分野に共通しているのは、むき出しの政治力が影響を及ぼしたり、外部性とか外部経済とかの表現がひんぱんに出てきたりすることです。
経済学の本を読んでいて外部性とか外部経済とかの表現が出てきたら、それは「この問題については、経済学の枠組みの中ですっきり説明できる定説はありません。経済学の外の話と思ってください。ごめんなさい」という意味です。
重要性については疑問の余地はないけれども、経済学ではすっきりこれが正解だと言えるような解答を出せない問題ばかりを、正解を問う試験問題に出していたら、模範解答だって万人に納得のいくものにはならないし「経済学は暗記問題」と思う人も増えるでしょう。
しかし、経済学は決してそんなふうにあいまいもことした分野ばかりで成立した学問ではありません。
4位にとどまってしまった市場の仕組みは、「人間ならだれしもそういうふうに動くよな」という前提だけで、いかに多くの現象を論理的に理解できるかの典型とも言える分野です。もし私がセンター試験の問題を考えるとしたら、全問の過半数をこの分野で出すでしょう。
ただ、市場の「仕組み」という表現は、だれか知的能力の優れた人がいつかどこかで思いつくか、考え出すかした構造のようで、あまり適切だとは思えません。
人類が文字に書かれた歴史というかたちで知的財産を蓄積しはじめた頃にはもう、ほとんどの文明圏で市場取引は始まっていました。
地球上のあらゆる場所で、自分たちのところでいっぱい造れたり採集できたりするものと、あまり造れず、採集できないものとを交換すると、取引した人たちみんなが豊かになれるという経験は積み重ねられていたのです。
ですから私は、だれが仕組んだわけでもないのに、取引の場としての市場があるかぎりそこでは必ずこういうメカニズムが働くものだという意味で、市場の働きと呼びたいと思います。
さて大変前置きが長くなりましたが、本題に入りましょう。
需要が右肩下がりで、供給は右肩上がり
最初にご覧いただきたいのが、需要曲線です。
ここで注意していただきたいのは、需要とは一定の量ではなく、モノやサービスの価格の変化に応じて、値段が上がれば小さくなり、値段が下がれば大きくなる関係(数学用語で言えば関数)のことだという事実です。
たとえば1週間にリンゴを買う予算は300円と決めている人がいたとしましょう。リンゴ1個で300円なら1つしか買えないし、150円なら2つ、100円なら3つ、60円なら5つ買えることになります。
もちろん、現実にはモノやサービスそれぞれについて予算枠を決めてその中で買えるだけ買うという人は例外的な存在でしょう。
値段がどんなに高くなっても安くなっても毎日1つ必ずリンゴを食べるから、リンゴ需要は1週間に7つのところで垂直線になっている人もいるかもしれません。
また、あまり高ければ同じような満足感を得られるオレンジやナシなど他のモノを買って済ませる人も多いでしょうし、すごく安ければ他のモノを買う予算を削って300円を超える金額をリンゴに回すという人も多いと思います。
中には「値段が高ければ買うけれども、安ければ買わない」というへそ曲がりだっているかもしれません。
でもひとつのモノやサービスの市場(マーケット)に参加する消費者全体として見れば、値段が高くなるほど買う量は少なくなり、安くなるほど買う量が多くなるのは、間違いのない事実です。つまり、需要曲線は右肩下がりということになります。
同じように供給についても、値段の変化に応じて売ることのできる量がどう変わるかの関係を見てみましょう。
原材料費も労賃も販売管理費もまったく要らず、儲け(利益)もなしで売りたいというモノやサービスはめったにないでしょうから、いちばん安い状態で最初の1つが供給される価格は、ゼロでもマイナスでもなく、プラスになっているはずです。
それから先は、値段が低いほど市場で売れるモノやサービスの量は少なく、高くなるほど多くなります。つまり、供給曲線は右肩上がりということになります。
需要曲線が右肩下がりという点ではあまり疑問や反論が出ることはなさそうですが、供給曲線が右肩上がりだという点については、反論が出てきそうです。
「規模の経済」ということばの意味をご存じの方なら、「むしろ、同じモノなら大量に作るほどコストが下がっていき、低価格でも大量に供給できる。だから供給曲線も右肩下がりなのではないか」とおっしゃるかもしれません。
ただ、「大量生産なら安くなる」というのは、巨額の資金を投じて大きな製造設備を建造してあって、まだその設備能力いっぱいに生産活動をおこなっているわけではなく、原材料も労働力もほぼ同じ質のものが値上がりせずに買えるときだけ成立する特殊解です。
一般論としては、同じモノの生産量をどんどん拡大していけば、遅かれ早かれ「規模の経済」の利点は失われて、大量に造るほど1個当たりの価格は上がることになります。
それでも、まるで「規模の経済」による量産効果→低価格が一般解で、大量に造ればコストが上がることのほうが特殊解であるかのように書かれた本も見かけます。
経済学者も、自分が生まれ育った環境の影響はまぬかれないのでしょう。製鉄・製鋼、総合化学、自動車といった重厚長大型製造業全盛期には、新鋭設備を持つ巨大工場では規模の経済が成立する時期が長続きしたので、それが当然と思いこんでいたのかもしれません。
なお、企業が業界首位の座と同業他社より圧倒的に高いマーケットシェアを狙い、その目標を達成するまでは意図的に自社製品の価格を安めに設定することもあります。
それは規模の経済が働いているのではなく、その企業が利益最大化のための下準備としておこなっている経営戦略であり、結局は社会全体にとって供給量が少なすぎ、価格が高すぎる状態を招くことは、あとでご説明します。
市場で需要と供給はどう出遭うか?
市場にはたいていの場合、競(せ)りの担当者がいます。一定の価格を市場全体に唱えて、その価格なら需要量は全部でこれだけ、供給量は全部でこれだけと情報を収集し、その情報に応じて、唱える価格を変える役割を果たす人です。
この担当者が最初に唱えた価格一発だけで強引に決着をつけてしまうという、かなり不自然な構造の市場ならどうなるかを見てみましょう。
まず、たまたま唱えた価格が高すぎた場合です。
価格が高いわけですから生産者側では売りたい量は多くなります。ところが、消費者側では、その価格での需要量はもっと小さいので、この高めの価格と需要曲線が交わるところまでしか買えません。
この量は、需要と供給がぴったり一致する価格での取引量と比べると必ず小さくなります。「もっと売りたいのに需要がついてこないので売れなかった」という不満を持つ生産者が出てくる結果になります。
次に、競り担当者が唱えた価格が安すぎた場合も見てみましょう。
安くなったので消費者はもっと買いたいのに供給がついてこないので、やっぱり実際の取引量は需給が一致する量より少なくなります。「この値段ならもっと買いたいのに、だれも売ってくれる人がいないので買えなかった」という不満を残す結果となります。
こういう不便な市場構造は変える必要があります。
一度価格を唱えてみて、需要量より供給量のほうが多ければ、今度はもっと低い価格を唱えてみる。逆に需要量より供給量が少なければ、次にはもっと高い価格を唱えてみる。
こうして違う価格を唱えるごとに市場全体の需要量と供給量を集計するのは、大してコストのかかる作業ではありません。価格ごとの需要量と供給量を見ながら調整をくり返せば、需要量と供給量が一致する価格を見つけ出せるはずです。
需給が一致する価格で取引量は最大に
今度は、ごくふつうの市場で毎日おこなわれているように、需要量と供給量が一致するまで唱える価格を変える市場では価格と取引量がどう決着するかを見てみましょう。
今度は売り手側に「あの値段でならもっと売りたかったのに」という不満も残らず、買い手側に「あの値段ならもっと買いたかったのに」という不満も残らない価格と取引量での決着となりました。つまり、市場が自然に売れ残りも買いそびれも残さずにきれいに取引量を捌ける価格を発見したというわけです。市場経済が持ついちばん重要な利点は、だれが指図することもなく自然なメカニズムとして均衡価格を発見し、その価格がその時点での生産力と富の水準を前提とした上でもっとも大きな取引量を導き出すという事実です。競り担当者は「これだけの量を生産しなさい」とか「これだけの量を消費しなさい」とか命令しているわけではありません。「この価格なら買いたい量はどれだけですか? 売りたい量はどれだけですか?」と繰り返し、市場全体に尋ねているだけです。この作業をするだけで、社会全体にとって不満の出ない価格と取引量が決まり、しかもその取引量は、そのときの社会全体の生産力と富の水準では最大限の量なのです。均衡価格での取引量より右側(つまりもっと多い量)は、ないものねだりの世界です。高すぎて需要がついてこないか、安すぎて供給がついてこないかのどちらかになるので、市場経済の自動調整機能に任せているかぎり絶対に達成できない水準です。もちろん、独裁者が消費者のあいだで人気を取るために「安すぎて赤字が出るとしても、絶対にこれだけの量を供給しろ」と生産者に命令することはできます。逆に特定の産業を育てるために、その産業の製品を「どんなに高くて他のモノを買うカネがなくなっても、絶対にこれだけの量を消費しろ」と命令することもできます。
でも、市場にそういう介入をすれば、必ず社会全体の豊かさが減少することになります。
均衡価格が最大の社会余剰をもたらす
なぜ、均衡価格での取引が社会全体にとって最大の豊かさをもたらすのかを、余剰という概念を使ってご説明しましょう。
均衡価格での取引では、消費者余剰と生産者余剰の合計が最大化します。余剰とはどういうことでしょうか。
上のグラフで、均衡価格での取引量に向かって水平線を引くと2つの三角形ができます。上の需要曲線と価格軸に挟まれた三角形を消費者余剰、下の供給曲線と価格軸に挟まれた三角形を生産者余剰と呼びます。
上下2つの三角形は、どんな意味を持っているのでしょうか。
まず消費者にとっては、「もっと高い値段でも買うつもりだったモノやサービスを安く買えたので得をした」という金額をいちばん高い価格で買うつもりだった人からぎりぎり均衡価格で買うつもりだった人まで累積した金額のことです。
当然、余剰の金額はいちばん高い価格で買うつもりだった人にとって最大となり、均衡価格で買った人のところで余剰はゼロとなります。
生産者にとっては「もっと安い値段でも売るつもりだったモノやサービスを高く売れたので儲かった」という金額を、いちばん安い価格で売るつもりだった人からぎりぎり均衡価格で売るつもりだった人まで累積した金額のことです。
こちらもいちばん低い価格で売るつもりだった人にとって余剰は最大となり、均衡価格で売るつもりだった人のところでゼロとなります。
独裁者が「均衡価格より安くても売れ」と命令すれば、消費者余剰は増えますが生産者にとっては余剰が出るどころか損失が出てしまうので、社会全体の余剰は均衡価格での取引より小さくなります。
同じように「均衡価格より高くても買え」と命令すれば、生産者余剰は増えますが消費者にとっては余剰が出るどころか損失が出てしまうので、社会全体の余剰は均衡価格より小さくなります。
取引量を無理やり増やそうとしても、社会全体の豊かさは増えないどころか減ってしまうのと同じように、価格を均衡価格より高くしたり、低くしたりしても、社会全体の余剰は減少します。
価格操作も均衡価格より社会余剰を減らしてしまう
まず、独裁者や独占企業、あるいは2位以下よりはるかに高いマーケットシェアを持った寡占企業(ガリバー型寡占と言います)が、均衡価格より高い価格を消費者や同じ業界の他の生産者に押しつけたら、社会余剰はどう変わるでしょうか?
均衡価格より高い価格を設定すると、需要曲線の左上に移動するので取引量は減少します。当然、生産者余剰は均衡価格のときより大幅に増えますが、消費者余剰は生産者余剰が増えた分以上に縮小してしまいます。
社会余剰全体が図の中で紫色の斜線を引いた部分だけ小さくなっているので、そうならざるを得ないのです。
ある業界に独占企業やガリバー型寡占企業が誕生する経緯は、3通りあります。
まず、あまりにも大きな規模の経済が働く時期が長く続いて、自然に生産者が1社に絞りこまれるとか、同業他社を威圧して自社の設定した価格で売らせることができるほどマーケットシェアを拡大したガリバー型寡占が生まれるという「自然独占」です。
次に、ある産業で「国家が指定した特定の業者しか生産・販売活動をしてはいけない」ということにして、その産業から生ずる利益や税収を安定的に確保したいという理由で生まれる「制度的独占」です。
最後に、「どんな産業でも圧倒的に高いシェアを取れば価格支配力を握れるから、そのあとでタップリ儲けることができれば、初めのうちは赤字操業でもとにかくマーケットシェアを高めよう」という「戦略的独占」です。
「自由競争の市場経済」の信奉者と称する経済学者の中にも、「どんなに安定した地位を固めたように見える独占企業でも、まったく違う分野と思っていた企業の成長でシェアを失う危険があるから、身勝手な高価格を維持することはできない」と主張する向きもあります。
こういう人たちは、独占やガリバー型寡占の存在も「制度的独占ではなく、自由競争の結果として形成されたものであるかぎり容認すべきだ」と言うのですが、果たしてどうでしょうか?
私は、形成の経緯にかかわらずいったん独占やガリバー型寡占になってしまった企業は、必ず高すぎる価格を維持して、自社ばかりかその産業全体の衰退を招くことのほうが圧倒的に多いような気がするのですが。
それでは、政府が消費者に対する人気取り政策として価格に上限を設ける政策を取ると、どうなるでしょうか?
やはり、消費者余剰はかなり増えるのですが、生産者余剰の減少を埋め合わせるほど大きくなるわけではありません。社会余剰全体が紫色の斜線部分だけ減少しているからです。
時代の変遷は均衡点をどう変えるか?
これまでご覧いただいてきたのは、ある一定の生産力と富の水準の中で、需要と供給がどう折り合って均衡点を見つけ出すか、取引量や価格を操作すると、どうして自然に形成された均衡点より社会全体が貧しくなる選択になるのかでした。
この均衡点が、時代の変遷に応じてどう変わるかを見てみましょう。
まず、社会全体に蓄積されてきた富が拡大する、あるいは縮小するとどうなるかのグラフです。
社会に蓄積された富が増えれば、需要曲線全体が上に移行します。上のグラフでは緑の鎖線です。
そうすると、今までより高い価格で、もっと大量の取引が成立することになり、そこから生ずる社会余剰も増えます。新しい均衡価格の水平線の上下の三角形の面積と、古い均衡価格での社会余剰の大きさを比べてお確かめください。
逆に社会の富が縮小すると、緑の点線のところまで需要曲線が押し下げられます。今までより均衡価格は下がるのですが、少ない量の取引しかできず、社会余剰も減ります。
それでは、科学技術の進歩による生産力の拡大と、資源が枯渇することによる原材料価格の高騰はそれぞれ、どんな影響を均衡価格に与えるでしょうか。
まず技術進歩は同じ価格で生産できる量を増やすので、供給曲線を右側に移行させます。グラフでは赤の鎖線です。新しい均衡価格では、それまでより低い価格で取引量が増えるので、これはもう文句なしに社会余剰が大きくなるとおわかりいただけると思います。
逆に、原材料価格の高騰は供給曲線を左に移行させます。グラフでは赤の点線です。今までより高い価格で取引量は少なくなるので、こちらが社会余剰を削減することも明らかです。
現実の世界では、技術進歩による供給曲線の右への移行と、原材料費の高騰による左への移行のせめぎあいの中で、少しずつでもモノやサービスの取引量全体が増え、それにつれて社会余剰の拡大によって蓄積される富は増加し、需要曲線は押し上げられていくはずです。
なぜ、何十年かに一度、社会全体の富が収縮し、需要曲線が押し下げられる状態がやってくるのかについては、またの機会に書かせていただこうと思います。
もし「こんなわかりきったことをくどくど説明されても退屈だ」というご意見が多ければ、このシリーズは打ち切りますが、いかがでしょうか?
■
編集部より:この記事は増田悦佐氏のブログ「読みたいから書き、書きたいから調べるーー増田悦佐の珍事・奇書探訪」2022年9月8日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿を読みたい方は「読みたいから書き、書きたいから調べるーー増田悦佐の珍事・奇書探訪」をご覧ください。
からの記事と詳細 ( 需要曲線と供給曲線:超初歩からの経済学入門 その1 - アゴラ )
https://ift.tt/7xAHXFm
No comments:
Post a Comment